ジャンボギョーザだけじゃない
ジャンボギョーザだけじゃない
中華定食屋といえば、日本全国あらゆる場所で目にする普遍的な存在。近年は味にこだわったといいつつどちらかといえば見た目にこだわったラーメン専門店の潮流に押され気味だが、路地で、郊外で、営業を続けている中華定食屋はまだある。
高崎の吉井町に店を構える陽気軒もそんなお店。しかし同店は昔ながらの中華定食屋という範疇には全く収まらない、思いっきりパンチの効いた店だった。
小6で進路を決めた店主
ガッツあるオヤジに成長
「外出は一人ぼっちが基本。その際は食事もジャンクフードや気取らないラーメン屋のカウンター席で素早く済ませるようになって幾年月、孤独な独身中年ライター田中です。今回取材するお店もそっち系らしいので気楽にやってきましたが、なんだか様子が違う気が……」
JR高崎駅から車で約30分、曲がりくねった郊外の住宅街に突如現れる、一見するとすごく普通な昔ながらのラーメン屋といった外観のお店、それが「陽気軒」。店名どおりの陽気なニコニコマークに踊るような書体がその雰囲気を後押しするが、その脇にでっかく書かれた「ジャンボギョーザ」の文字が気になるところだ。
「陽気軒」は昭和36年創業、今年で56周年を迎える店。現在は創業者の長男・石丸一徳さんが2代目店主として店を切り盛りする。スタッフは10年前に結婚したという奥様と、創業者の妻でもあるお母さん、そして数名のパートさんたち。ほぼ完全なる家族経営だ。
「50年、ずっとこの場所で営業されているんですか?」
「開店当時は東京の池袋に店を構えていました。ところが今から40年前、突然群馬に引っ越すことになりました。おふくろの親戚や兄弟からこっちでやらないかと話があったんです。自分は当時まだ8歳だったんですけど、その頃のことはよく覚えていますね。とにかく田舎で、川も田んぼも畑もあるし、夜は星が見えるし。“ぼっとん便所”なんてのも初めて見ました(笑)」
「40年前だと今以上に都会と地方の差が大きいでしょうしね。でも、そんな土地で育ち、今ではこうやって地域に根ざしたお店を継がれていると。そもそもどういう経緯で継ぐことになったんですか?」
「小学生の頃から店の手伝いはしていました。自分でチャーハンを作ったりしてね。そしたら自分が小学6年生の頃のある日、ご飯食べてるときに親父に突然『将来どうするんだ? 店を継ぐのか?』と聞かれまして」
「小6で!?」
「はい。高崎に越してきた当初はここから少し離れた場所に店があったんですけど、借家だったんですね。で、お前が店を継ぐつもりがあるなら自分の土地に新しい店と家を建てるぞ、と」
「一家団欒の食事どきに、小6が答えられる質問のレベルを大きく越えてますね、それ。軽々しくはなにも言えないですよね」
「いや、即決しましたよ。やるよって」
「すげえ…」
「まぁ、子どもだったんで、新しい家に住めるっていうのが魅力だったんですね。それでここを建てることが決まって、自分が中1のときにここが完成しました。これでもう逃げられなくなっちゃった(笑)。その後、高校も一応は入って、卒業したらきちんと跡継ぎとして店で働くつもりだったんですけど、高1の5月ぐらいだったかな、親父がバイクで事故ってしまったんですね。じゃあもう、どうせ店継ぐんだから高校行かなくてもいいじゃんと中退して働き始めることになりました」
「思い切り良すぎですね」
「いやー、当時は中卒で社会に出るのも珍しくなかったですからそれほど思い切ったって感じでもなかったんですよね。それでしばらく親父の下で修業して、19年前に親父が他界してから自分が正式に2代目店主となったわけです」
値段と見合わないボリュームの理由
と、話を伺っている間に出てきたのが例のジャンボギョーザ。これは……本当にでかい上に、それが5個も! 果たして食べ切れるのか?
だがその心配は杞憂だった。具材はキャベツとニラの野菜ベースで、ボリュームとは裏腹にバクバクと腹に収まっていく。
これだけあってお値段たったの500円である。それにしてもなんでこうもでっかいのか。
「親父はもともと調理人ではなかったので、開店当初はコックさんを雇っていたんですね。その人に教えてもらったんだけど、皮が硬かったので伸ばして柔らかくしているうちにどんどん大きくなっちゃったそうです。高崎に来たときにはすでに今の大きさでした。親父としてはこのサイズが普通だと思ってたんだけど、お客さんからでかいでかい言われたんで、途中からメニューの名前を『ジャンボギョーザ』にしました。自分もこのサイズじゃないと作れないですね。具の量の感覚がこれしかわからない(笑)」
また、陽気軒はチャーシューが凄いらしいとの事前情報もあったので、特製チャーシューメンもあわせて注文したところ……。
なんですかこれは。
もうかぶりつくしかない。
「東京時代のお客さんに大学生が多かったので、チャーシューも当時から分厚く大きいサイズです。でも自分に代替わりしてから製法なんかは変えていますね。親父のときはモモだったんですけど、冷えるとパサパサになるんですね。そこで今はバラ肉にしています。焼いてからスープに2時間半、醤油に2時間漬けて、また焼いて完成です。焼くのはフライパン。炭火で炙るのがいいのかもしれないけど、それだと離れられないし、バーナーだとガス臭くなりますしね。コスト的にもこれが一番なんですよ」
「それでも充分手間がかかってると思いますが、にもかかわらず特製チャーシューメンが850円ですか。東京ならこのサイズのチャーシュー一枚入ってるだけで1200円はするんじゃないですか?」
「うちは基本的に家族経営なんで人件費がほぼかかりませんからね」
「そういう問題ですか」
創業100年を目指すより、味の向上こそが重要
陽気軒さんは今年で創業56年だが、味も56年継続なのだろうか。
「それは親父が倒れた時点で変わっています。自分が継いですぐはそのままやってたんですけど、客足がどんどん落ちていく。そこで友人たちを呼んで、今何が足りていないのか正直に言ってくれと頼んだんです。当時はいわゆるラーメン屋というより、カツ丼やオムライスなんかもあるような、昔ながらの食堂だったんですけど、ある友人から『お前んちはいったい何屋なんだ』と言われて。味も親父のを見よう見まねでやってるだけだからつまらない、作り手が変わったんだから、親父の味を求めてくる常連さんにとってはどうやったって味が違うと思われる、みたいなことをさんざん言われました」
「そこでメニューを絞ったりしていったわけですか」
「それもありますし、とにかくできることから改善していきました。他のお店に行ってセットに何がついてくるのか、カウンター席に座って厨房を覗いたりとか、取引先からもアドバイスをもらったり。こうした試行錯誤は今も続けているので、メニューはある程度固定してますけど、味は変化し続けています。なので、数年後に同じメニューを頼んだらもっと美味くなっているはずです。でなきゃ飲食店やってる意味がないと思いますね」
「かっこいい! 親父さんも喜んでるでしょうね」
「だといいんですけどね。親父の借金も自分が返しましたし」
「ん? 借金?」
「継いでからわかったんですけど、その時点で多額の借金があったんですよ(※ご本人の希望により額面は伏せますが結構な金額)。自分、当時29歳ですよ。経理も全部親父がやってて、儲かってると思ってたらそうでもなかったっぽい(笑)」
「そこは『(笑)』でいいんでしょうか……」
「まあでも、今までもやってこれたんだから、継いでもなんとかなるんじゃね? という気持ちではいました。結果として徐々に上向いて借金も減ってきたので、15年ぐらい前に心機一転、店舗をリフォームしてみたんです。そしたら翌年に大きな声じゃ言えないもっとお金が出ていく事態があってですね……リフォーム代と、返しきってなかった親父からの引き継ぎ分とをあわせて、借金が総額約2倍にまで膨れ上がりました(笑)。でも10年で返しましたよ」
「10年で完済って、メチャクチャやり手じゃないですか。そんなお店の今後なんですけど、息子さんが3代目就任といった可能性は?」
「息子も今10歳で、自分が跡を継ぐか聞かれた歳まであと2年ですけど、こればっかりはねえ、押し付けはできないですよね。休日も老後の保証もないですし。でも、もしも継いでくれるなら、陽気軒創業100年も夢じゃないんですよね……。今のところは継ぎたくないと言ってるので期待できませんけどね。皿の片付けとか手伝わせてますけど」
「継がせる気まんまんな気もしますけど、その場合はこの味も食べ続けられると考えていいんでしょうか」
「それはないです(きっぱり)。自分が親父の味をそのまま再現できなかったのと同じで、作る人が変われば同じ作り方でも味は変わりますからね。同じことをやっていてもニセモノになるだけですよ。継ぐなら今の味はベースにしながらも、自分の好みをそこに加えていかせますね」
誰かが継ごうが継ぐまいが、今の味は自分の代のみ、といさぎよく語る石丸さん。店や味を残すより、調理人として自身が鍛錬し続けることこそ生き甲斐と宣言しているように感じられた。60歳になったら採算度外視したさらに美味いラーメンとギョーザを作る構想もあるとのことで、一期一会の味を今、食べに行こう!