最古参のパン屋がオシャレに日英堂

No.61

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日英同盟の年に誕生した
高崎で最古参のパン屋が
オシャレ&ヘルシーになってる件

1902年、日英同盟が結ばれた年に産声をあげたパン屋「日英堂」。パン食がまだ一般化するはるか前に創業し、以来「多くの日本人に食べてもらいたい」という思いで5代に渡って受け継がれ、いまだに北関東で最古参のパン屋として地元のみなさんに親しまれている。そんな老舗店が最近リニューアルし、やたらと店内がオシャレになり、さらにイートインスペースまで設け、さらにさらにパンそのものが健康を意識した「超今風」になっているという。この思い切った方針転換はいったいなんなんだろうか…。

(取材/絶メシ調査隊 ライター小山田滝音)

曽祖父が船の上でパン作りを
すべてはそこからはじまった

北関東で屈指の老舗パン屋「日英堂」が、大幅なリニューアルをした。しかもかなりオシャレになっているらしい――そんなニュースを聞きつけた我々絶メシ調査隊は、いてもたってもいられず高崎へと直行した。
ライター小山田

「こんにちは、今回の取材を担当するライターの小山田滝音です。普段、食べ物の取材ばかりしているので、日に日に体が大きくなっております。さて本日の現場は、高崎が誇る超老舗店『日英堂』さんです。創業は日英同盟が締結された1902年ということで、かなりの老舗感を醸しているのかと思いきや、リニューアルのせいか結構モダンな外観…都内にありそうなおしゃれなパン屋って感じですね。とりあえず入ってみましょう!」

ごめんください(ガラガラガラ)。
ライター小山田
「おや…店内も120年近く続いている老舗とは思えないほど、今っぽいですね…」
こんな感じ。
キューブ型のスピーカーも吊り下げ系。
ナマケモノと思われるぬいぐるみも。

たしかに噂通り、超老舗店がとってもオシャレなベーカリーカフェになっている。いったい、なにがあったというのか…。

さっそく、日英堂4代目の清水久仁男(くにお)さんを直撃した。

ライター小山田

「聞きたいことが山ほどあるのですが、まずはお店の歴史から聞いても良いですか?」

久仁男さん
「お店の歴史つっても、どこから話そうかなぁ…ウチはもともとパン屋ではなかったんですよ。そこから話した方がいい?」
ライター小山田

「ほげ? 1902年にパン屋さんとして創業されているわけだから、1902年以前からなにか商売をされてたってことですか?」

久仁男さん
「そう。当時は洋酒とかタバコを中心に舶来品を売るような商店で、創業は1880年だったっけな」
ライター小山田

「1880年! 自由民権運動真っ只中ですね!

久仁男さん
「(無視して)とにかく20年くらいは商店だけでやってたんだよ。そこからパン屋にしたのは、俺のひいおじいちゃん。浜吉ってんだけど、浜吉さんが船に乗って海外放浪をしていたらしいんだよ。太平洋を横断してアメリカへ行ったりとかな。そうすると、何カ月も船に乗ってるんで、暇なわけ。で、船の中でパン作りを覚えて帰ってきたと」
久仁男さん
「凱旋帰国した当時、高崎には一軒だけパン屋があったらしいんだけど、そこから窯を借りて作ってみたら、そのお店の人が『素人でこんなに作れるんだったらやってられない』なんて言って店を閉めちゃったらしいんだ。それで残された窯を、浜吉さんが譲り受けて、パン屋をすることになったと」
ライター小山田

「完全に道場破りですね(笑)」

1880年に舶来品を中心に販売する「清水商店」として商いをはじめ、久仁男さんの曽祖父にあたる浜吉さんが、海外放浪中、船の上でパンづくり覚えて帰郷。そこからパン屋としての歴史が始まった――続きの話を聞こう。
久仁男さん
「屋号を『日英堂』にしたのは、浜吉さんの息子・くら吉(後の2代目浜吉)さんのときつまり、俺のおじいちゃんから。ただその時はまだ洋酒なんかも扱ってたみたいだけどね」
久仁男さん
「あと歩兵第15連隊の連隊長とかもウチの常連さんだったみたい。あとは皇族の方もこちらに来たときに食べていただいてたみたいね。当時、ウチみたいな店は高崎にあまりなかったから、みんなここへ来たみたいなんですよ」
ライター小山田

「ちなみにパン一本に絞ったのはいつぐらいですか?」

久仁男さん
「いつ頃だろうね…私のとき(4代目)にはもう洋酒はやってなかったから、親父(3代目幸雄さん)の頃に一本に絞ったのかもね。でも、親父の時代は、戦争も経験してるから粉がなくて大変だったんだよな」
ライター小山田

「粉がない、ですか。いまでこそ群馬は“粉どころ”ですけど、戦争でそれどころじゃなかったわけですね」

久仁男さん
「そう。当時は高崎にある4軒のパン屋が集って『第一合同製パン』というのを作って、うちに粉を集めてたんだ。1軒じゃとてもやりきれないから、うちで焼いたパンをほかの3軒に振り分けたわけですよ。電気もなかったし、石炭だのコークスを使って窯を温めてね。これを3~4年やってたのかな。私はまだ子どもだったけど、その苦労は見てきたわけよ」

60年間、第一線で活躍
今春、勇退→劇的リニューアル

ここからはインタビューに答えてくれている4代目の久仁男さんもからむお話。戦後まもなく、まだ幼い時期から商売の手伝いをしていた久仁男さん。彼が本格的にパン作りをはじめたのは16歳のとき。そして19歳で上京。東京・千駄ヶ谷の専門学校に入り、パン作りを学んだという。
久仁男さん
「でも、“パン学校”に通ってたのなんて、3カ月ちょっとくらいだよ。で、帰って来たら、親父はお店を私に任せっぱなし(苦笑)」
ライター小山田

「えっ、そうなんですか? 」

久仁男さん
「そうなんだよ〜。親父は配達担当で、いっかい店を出たら帰って来やしねぇ。配達先で、碁打ってたりね。だから親父が配達に行けばもう仕事は終わり。で、俺が店を継いだのは40代になってからだから20年以上は、そういう感じで親父の下で働いてたかな。で、今年の4月に息子に継いだってわけ」
ライター小山田

「ざっと計算して、60年くらいずっとこのお店で働いていたんですね。月並みな質問で申し訳ないですけど、この60年で高崎の街ってどんな風に変わっていきましたか?」

久仁男さん

「そうだなぁ、商店街が商店街じゃなくなった…それが一番大きく変わったことかな。昔はこの角から向こうの角まで、店が全部つながってたんだから。今は元気がなくなったというか、人がいねぇよな」

ライター小山田

「一番、街が元気だったのはいつくらいでしたか?」

久仁男さん

「昭和30年代〜40年代じゃないかな。ウチの隣のビルが昔、上信バスの本社で、この端のビルが郵便局。後ろには藤五デパートがあった。ウチの店のすぐ脇が、藤五デパートを行き来する人の通り道でさ。当時、市役所で調査したら、1日2万5千人通ってたらしいんだよ。でも、その後、街も衰退して藤五もなくなったら、人通りも1日3千人くらいまで減ってしまって」

ライター小山田

「藤五デパートがなくなっただけで、8分の1に…」

久仁男さん

「誰も藤五が潰れるなんて思っちゃいないわな。まぁ、街が変わったら同じような商売してても続けられないから、学校とかに移動販売するようにはした。そうやって、なんとか今までやってこれたよ」

ライター小山田

「ここまで続けてきた苦労は相当なんだと思います。そして、今年の春に隠居されたということですが、代替わりした理由についてお教えいただけますでしょうか」

久仁男さん

理由なんてないよ。引退しても、俺はここにいるしね。ただ、店のことは全部、息子に任せた。金は出すけど、口は出さない。これが信条です」

ライター小山田

「超いいじゃないですか。では、このモダンな雰囲気もすべて息子さんである5代目のディレクションなんですね」

久仁男さん

「そうそう。パン自体もかなり変わってるよ。昔からの日英堂のパンは3分の1残っているかどうかという感じじゃない。私が考えられないもん作ってるしね

ライター小山田

「もう、ほぼほぼ新しい店になっちゃってるってことですね。これほどの老舗でそこまで攻められる5代目っていったいどんな方なんでしょうか…」

新しくなったのは
見た目や味だけじゃない

2019年4月、4代目の久仁男さんから5代目の洋一さんへとバトンタッチ。新社長に就任した洋一さんはすぐに“改革”に着手。キッチンの数を増やし生産量を上げ、店の内装も刷新、イートインスペースを設け、さらにパンの種類も大幅に増やした。
洋一さんは大学卒業後、神奈川県内のパン製造機器を扱う機械メーカーの会社員として約10年間勤務。その間、国内のパン屋、パン工場などの「現場」を見てきたという。彼が高崎に戻ってきたのは1999年のことだった
ライター小山田

「99年に高崎に戻ってきたということは今から20年前。当時、32歳で家業をお手伝いすることになったと。そもそも、戻ってくるきっかけは何だったんですか?」

洋一さん
「会社で役職が上がり偉くなりそうだったんですよね(笑)。そこではシステムエンジニアとして図面を描いたりしてたんですが、もともとパン屋を継ぐ前提で入社していたので。『このまま会社にいてくれるか』と言われて、これはもう決断しなきゃいけないなと思って辞めましたね」
ライター小山田

「実家に戻って、実際いかがでしたか?」

洋一さん
「街にしても、ウチの店にしても、いろんな面で過渡期だったと思います。店舗もかなり老朽化していましたし。あとは商品のラインナップが乏しかったという印象はありましたね。昔ながらのパンはそのままあったんですけど、やっぱりそれだけじゃ厳しい。店舗を改装したり、機械を新しいのに入れ替えたり、新しい商品を出したりしながら、どうにかやっていたような感じです」
ライター小山田

「家業を支えてきて20年。この春についに5代目となられたわけですけど、思いっきりリニューアルされましたね。内装もそうですが、パンの種類もかなり変更されたそうで」

洋一さん
「そうですね。最近は健康志向もあり、とにかく身体に良いものを作っていきたいなと。分かりづらいところですけどイーストフードを使うのをやめたりとか、添加物を使うのをやめていったりしました」
たしかに店に並んでいるポップをよく見ると、健康に気を使ってそうなワードが。
ライター小山田

「実際に数種類のパンをいただきましたが、どれも本当に美味しかったです。そして味もさることながら健康面でも配慮されているのは、毎日食べるパンという食べ物だからこそ、ありがたいですよね。今後はどういうパン屋にしていきたいとお考えでしょうか?」

洋一さん
「健康というテーマは変えないと思います。ただ、健康のあり方が多少変わってくるというのはあるかもしれませんが。たとえば、昔は栄養があれば健康といえたけど、今はそうとも言えないじゃないですか。どの栄養が入っているのか、その栄養は本当に必要なものなのか、とか。そういう感じで、健康の概念そのものが時代とともい変わっていくので、それにあわせてシフトチェンジはしていくんだと思います」
60年にわたり日英堂を支えてきた4代目の久仁男さん。お店の歴史の重みを感じつつも、攻めの気持ちで大胆なリニューアルを果たした5代目の洋一さん。ふたりに通じているのは、“街のパン屋さん”として、地域の人々に愛されること、そして地域の人のことを思ってパン作りをすること……これらを徹底していることではないだろうか。この春のリニューアルで一見大きく変わっているように見えるが(実際に変わっているけど)、その芯にある魂のようなもの、老舗店としての矜持はなにも変わっていない――優しい味のパンを食べながら、そんなことを考えてしまった。

取材/小山田滝音
撮影/今井裕治

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