名女優も愛した味が、高崎に郷華

No.60

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

夏目雅子さんも“虜”に?
高崎市郊外で見つけた
奇跡の料理人の中国料理店

高崎市吉井町の田園風景広がる道路沿いに、かな〜り本格的な北京料理を出す名店があるという。基本、大皿料理がメインで、いずれも味は抜群。それもそのはず、この店のご主人は東京・目黒の「雅叙園」で修行経験のある実力者だとか。しかも、某人気メニューは、あの名女優・夏目雅子さんも愛したというのだ。なぜ、吉井にそんなすごい店があるというのか。これは取材しなければ……。

(取材/絶メシ調査隊 ライター小山田滝音)

山形出身、40越えて高崎へ
…で、なんで吉井でお店を?

北京料理というのは中国料理の一つ。北京ダックや炸醤麺(ジャージャー麺)に代表されるが、かつての宮廷料理であったため、繊細かつ見栄えにこだわったお料理が多いとされている。ちなみに、馴染みのある「中華料理」とは日本人の舌に合うように味付けされた料理で、中国料理は本場の味そのまま。本日伺う「郷華」さんは、そんな本場&リッチな北京料理が味わえるという。今回、絶メシ調査隊デビューのライター・小山田滝音が、その魅力に迫る。
ライター小山田
「こんにちは、ライターの小山田滝音です。絶メシ調査隊に入隊して最初の現場です。初球から本格的な北京料理の店の取材ということで、もうこれはフルスイングで胃袋に特大ホームランをぶち込みたいと思います!」
いまいち何を言っているのかわからない絶メシ調査隊ルーキー・小山田を笑顔で迎えてくれたのが、郷華の店主・島貫長四郎さん(68歳)とその奥さんの豊子さん(83歳)。
ライター小山田

「高崎市中心部からちょっと離れた吉井町というエリアに、本格北京料理の店があるというだけで心がざわついてしまうわけですが…まずはご主人の料理人として経歴を教えていただけますでしょうか」

長四郎さん
「私は山形県長井市の出身で、中学卒業後に農業学校へ進学。そして中退して15歳~16歳のときに、酪農を学ぶため北海道に渡ったんですね。うまくいかず、すぐに地元に戻ってきたけど、長井では酪農ができるような環境が整っていない。早々に酪農を諦め、東京・上野へ風呂敷を担いで上京。小さなころから飲食の世界に興味があったので、飲食店の仕事を探し歩きました」
ライター小山田
「超高速で10代を振り返っていただきありがとうございます。今のお話は17歳くらいまでのエピソードですよね…すごすぎます。ちなみに東京での仕事探しはどうでしたか?」
長四郎さん
「住み込みで働かせてもらえるお店が江戸川区の小岩(こいわ)で見つかったんです。中国料理屋の見習いでした」
ライター小山田
「おお、最初から中国料理と出会っていたのですね」
長四郎さん
「その店の料理長って人が、とても顔が広く、ナイトクラブを紹介していただいて夜もボーイとして働くことになったんですよ。なので当時は朝から晩までずっと働きづめでしたね。いやぁ、働いたなぁ」
ライター小山田

「飲食店だけでも重労働なのに、ナイトクラブでも…いつ寝てたんですか」

長四郎さん
「上京して1年半後くらいのこと。働いていた中国料理屋が不景気のあおりを受けて潰れてしまいました。それから、20代はあちこち転々としていくわけですが、全部話すと長くなるので、ざっくばらんに説明すると……大手町の『丸ノ内ホテル』で3年ほど働いて、その後に『目黒雅叙園』に入りました。このときが30歳前後です」
ライター小山田
「目黒雅叙園! 超名門じゃないですか!」
長四郎さん
「雅叙園には約4年間働いてました。そのうち約1年半は、湘南の鵠沼に“支店”みたいなところに在籍していましたが、最終的には副料理長までになりました」
ライター小山田
目黒雅叙園副料理長! 漢字多い!」
長四郎さん
「ちなみに、その鵠沼の“支店”で妻と出会いました。そこで彼女も働いていたので」
ライター小山田
「おお、職場結婚なんですね」
長四郎さん
「その後、いわゆる“引き抜き”にあって、相模原市内の結婚式場で料理長を10数年やりました。それから、系列の結婚式場が高崎にあって、そこに移ることになったんです。それが42〜43歳のころかな」
ライター小山田
「なるほど。40を越えて、群馬に来られたと」
長四郎さん
「高崎の結婚式場には2〜3年勤めていたんですが、時代も時代。料理長という立場でも、営業活動をしなきゃいけなかったり、月に2回は会議に参加するために新幹線で大宮へ行かなきゃならなかった。自分で言うのもなんですが、私は根っからの『料理人』なんですよ。こういう、会社員のような仕事は向かなかった。我慢して2年ほど働きましたが、もうこれは独立するしかないと思い、44歳でこの店をこの場所ではじめることにしたんです」
ライター小山田
「当時、高崎に来てまだ2年ほどですよね。料理人としてのキャリアは東京、そして神奈川県内でほとんどを過ごされて来ていたのに、なんで高崎…というより、(郊外の)吉井町でやることにしたんです?」
長四郎さん
「正直私は、自分の店が持てればどこでも良かったんですよ。場所さえ決まればそこに骨を埋めるつもりでいましたし。で、現実的な話をすると当時はまだ高崎の結婚式場で働いており、店をはじめようにも、休みの日に妻とドライブがてら物件を探すことしかできなかった。だから基本、物件探しは群馬県内が中心で、ちょっと県外に行くこともありました」
ライター小山田
「ということは県外でお店をやっていた可能性もあったわけですね?」
長四郎さん
「そうそう。一度は箕郷(みさと)町で決まりかけてたんですよ。高台で眺めがとても良いところ。内金として300万円くらいを支払ったんですが、設計の段階になって敷地の半分が道路になると言われて即刻、中止……それでなんだか疲れちゃってねぇ(苦笑)。なかば自暴自棄になっていたときに、たまたま見つけたのがこの場所だったんです。70坪あるし、『なんか良いな』と思ったんですよね。それで、なけなしの金で家を建てました」
ライター小山田
「この場所をたまたま見つけられたのも、なにかの縁だったのかもしれないですね。なにかのお導きがあったというか…」
長四郎さん
「いやいや、そんなもんじゃないと思いますよ。だってオープン当初、客足は全然なかったですから(苦笑)。“本格中国料理”なんて看板掲げたところで、この町ではなんだそれ?の世界。求められたのは餃子、チャーハン、ラーメンの3つだけ。特に最初の4カ月くらいはラーメンばかり。中国料理なんで大皿でオーダーして、みんなで円卓を囲みながらワイワイ楽しんでもらうのが普通ですが、誰もその他の料理なんて頼まないんです。なのでオープン当初はラーメン屋みたいになっていましたね」
ライター小山田
「吉井町に限らずですが、そういうゴージャスな中国料理は都会以外ではあまり見かけないですもんね。僕も神奈川の田舎の出身なのですが、そういう料理を楽しむようになったのは東京に出てからですし」
長四郎さん
「まぁ、無理があったんだよね。でもやっていくうちに、徐々に認知されるようになって、まず宴会で予約してくれるお客さまが少しずつ増えていったんです。すると、昼も夜もフル回転の日が多くなっていきました。そして、こうやって長くやってこれたのも、ホントこの地域のみなさんのおかげです。オープン当時、家族で来ていた子供たちが30代、40代になって思い出して戻ってきてくれるなんてケースもあります。長くやってきた甲斐がありました。これだから客商売っていうのは面白いなって思いますね」

調理場に入ったら別人!
包丁さばき、鍋使いがエグい!

長四郎さんの経歴〜郷華の創業当時のお話をざっくり伺ったので、早速、調理をしていただこう。長四郎さん、よろしくお願いします!

……って、厨房に入った瞬間、長四郎さんの表情が一変。

超カッコよくなってしまった!

顔だけじゃない。
写真では伝えきれない、見事な包丁さばき。
速ぇ!

ファイアー!
すべての所作がかっこいい!

そして出来上がったお料理がこちら。

クラゲと豚チャーシューと鶏肉の「三拼盛」

ライター小山田
「まず目を引くのがこのクラゲ!  こんな太いの見たことないです!」
長四郎さん
中国で2番目においしいと言われる、大連のクラゲを使っています。1番目のものは日本だと手に入らないので、日本で食べられるクラゲとしては最高峰です。これを2日間塩漬けにするんですが、その間はずっと水を流しっぱなし…なので水道代も馬鹿になりません(笑)。でもそうしないと美味しく食べられない。まぁ、素人じゃできませんね
ライター小山田
「そんな食べる前にハードル上げていいんですか? 僕、こう見えても、都内の飲食店を相当数取材しているんですよ? まぁ、お手並み拝見ということで……(パクッ)」
うめぇぇぇい!!
ライター小山田
「まず、食感が今までにないですね。エグいくらいにコリコリしてます。さらに塩加減も絶妙。こんなクラゲ食べたことないですよ!」

ここから怒涛の北京料理攻撃!
「油淋鶏」(鶏唐揚げ甘辛ソースかけ)

「乾焼蝦仁」(小エビのチリソース)
「芙蓉蟹蛋」(カニ玉)
「焼売」(シュウマイ)

矢継ぎ早にくるお料理を食べた小山田、端的に言います!
「高崎に住んでて、ここに来ないのはありえないっす!」

そして小山田を撃沈させたのが、郷華でも特に人気の高いメニューがこちらのふたつの麺モノ!

「什景湯麺(五目そば)」
     &
「蝦仁湯麺(エビそば)」

まずは「什景湯麺(五目そば)」。五目そばって言ってるのに、目視で確認できるだけで5品目以上が入っているという。なにこれ、煽ってるの? 煽られてるの?
長四郎さん
「するどいね。入っているのはチンゲンサイ、ハクサイ、キャベツ、タケノコ、フクロダケ、ヤングコーン、シイタケ、ニンジン、クワイ、エビ、イカ、トリニク、ブタニク、ハムの15品です」
ライター小山田
「もはや十五目そばですね(白目)」
とりあえず食べてみますか。
ライター小山田
「はぁぁぁぁ、美味しい。食材へのこだわり、繊細な味付け、そして丁寧な仕事ぶりが随所に感じられます! って、この値段でどうやって出してるんですか!」
長四郎さん
「もう赤字なのでいいんです(笑)。多くの人にこの味が届けられればそれでいいんですよ」
最後にいただくのがこちらの「蝦仁湯麺(エビそば)」
長四郎さん
「このエビそばは雅叙園時代からずっとつくっているものなんですけど、あの当時、夏目雅子さんがよく注文されたんですよ」
ライター小山田
「あの名女優の? えっ、それすごくないですか?」
長四郎さん
「当時、夏目さんは化粧もせずにすっぴんで来てましたね。でもテレビで見るのと変わらずとっても綺麗だったなぁ。汚い格好のコックさんがぞろぞろホールまで覗きに来る、そんな光景を今もまだ覚えていますね」
ライター小山田
「ガツンとパンチが来るのではなく、しみじみ美味いですねぇ。なんというかとても品のいいラーメンです。はぁ、こんな美味しい料理が、ここ吉井で食べられるって、高崎のみなさん、ご存知でした?」

「後継者は作らない」と宣言
ただ料理を楽しんでほしい

ここまでレベルの高い北京料理をこの価格帯でたくさん食べられるのは、ほとんど奇跡といって差し支えないだろう。地元・山形を飛び出して東京に向かった若者が、北京料理に出会い、数々の修羅場をくぐりつつ料理人としての腕を磨きあげ、最終的に高崎にやってきた。そして40を越えて独立を考え、この吉井という場所に行き着いた。それはある意味で必然的であったかもしれないけれど、やっぱり奇跡なんだと思う。こういう味こそ、絶やしてはいけないのだ。最後に長四郎さんに、お店の今後のこと、後継者のことなどを聞いてみた。
長四郎さん
「後継者ですか? う〜ん、これまで何人もの料理人を育ててきましたけど、この店の後継者はいません。これからも育てる気はないですね。だから私の代でもう終わり(きっぱり)。この店を始めたのも、本格的な中国料理を、僕の料理を吉井で楽しんでほしかったから。だったら僕がつくれなくなったら、もうそれでお店はなくなっていいんです」
ライター小山田
「そうですか…残念ですけど、たしかに長四郎さんだからこそ、この味が出るんですもんね。いつかは絶える…であれば、もうみんな今来るしかないですよ!」
長四郎さん
「あははは。とにかく、みなさんの記憶には残りたいね。お店がなくなった後にさ、『吉井に郷華っていう中国料理店がありました』って言われたいね。もし私が死んだり、引退したらこの味はなくなるんです。料理とはそんなもの。今はそんな思いで毎日料理を作り続けています」
あと何年、この店の料理が食べられるのかはわからない。ただ、いつかはなくなることだけは確実なのだ。ずっと続くことを願っても、それは決して叶わない。とても切ない。まだお店があるのに、こうして元気で営業をしているのに、そんな未来を想像しただけでやたらとセンチメンタルになる。こんな気持ちを慰めるには、お店に行って腹を満たすしかないのだ。うん、迷わず行こう。いっぱい食べて、たくさん笑って、「おいしかったよ!」と長四郎さんと豊子さんに伝えよう。

取材/小山田滝音
撮影/今井裕治

  • このエントリーをはてなブックマークに追加