追悼、頑固な料理人かもしか【閉店】

No.25

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老舗洋食店「かもしか」の
黒いビーフシチューを
味わえたあなたは幸せだ

高崎市飯塚町に、一度食べたらやみつきになってしまう絶品のビーフシチューを提供する絶メシ系洋食屋「レストラン かもしか」があった。あの福田康夫元首相が、選挙戦で地元・高崎に滞在中、連日通いつめたという逸話(もちろん実話)。一度見ただけで忘れられない、その黒さ。そして、「美味しい」という言葉だけでは言い表せない深い味わい。いつまでも記憶にとどめておきたい逸品であった――。

2018年9月末、かもしかはオーナーシェフの岡野久男さんの体調不良により突如閉店してしまう。そして岡野さんが再び厨房に立つことを待ち望んだファンの願いも虚しく、同年12月、岡野さんは帰らぬ人となってしまった。あれから一年。献身的に岡野さんを支え続けた妻・岡野菜穂子さんに、お話を伺った。

(取材/絶メシ調査隊 ライター田中元)

絶メシリスト掲載後に
たくさんのお客さんが…

ライター田中
「絶メシ調査隊の田中です。私、前回の取材担当ではありませんが、あの記事を読んで以来、“黒いビーフシチュー”を食べたい食べたいと思っておりました…が、タイミングもあわず結局『かもしか』さんで食事をすることが叶っておりません。個人的に訪れておくべきだったという後悔を抱えつつ、オーナーシェフの岡野久男さんの奥様にお話をお伺いしたいと思います」
取材が行われたのは高崎市役所の会議室。かもしかの店舗はすでに引き払われていたためだ。
ライター田中

「はじめまして。絶メシリストで紹介させていただいたのが2017年度の冬のこと。もう2年近くも前のことですね。あの記事が公開された後、反響などはありましたか?」

菜穂子さん
「すごくありました。ランチタイムは以前から多くのお客様がいらっしゃっていましたけど、あの後は比較的空いていたディナータイムにも、シチューやハンバーグを食べにきてくれる方が増えましたね。インターネットの記事ですから、若い方もいらっしゃるようになりましたけど、新規のお客様の多くも従来のように中高年のご夫婦が多かったですね」
ライター田中

「それはよかった……」

菜穂子さん
「絶メシで取り上げていただいて、本人も頑張ろうって気持ちになっていて、私も本当に良かったなって思っていたんですけどね」

良かったと思っていた。そう語る菜穂子さんは数秒間、話すのを止めた。そして、心を落ち着かせ、ゆっくりとこう語り始めた。

菜穂子さん

「体調が悪くなってきたのは2018年の春頃から。記事が出て半年も経っていないころだったと思います。フライパンの振りすぎで手首や腰を傷めていたこともあり、忙しいランチタイムが終わるとすぐに疲れて座り込んでしまって」

ライター田中

「手首や腰を傷めていたお話は前回の記事でも御本人が仰ってましたね。そうした“職業病”に加えて、その他の疲労が目に見えるようになってきたと」

菜穂子さん

「そうです。そういう体調の悪い日がずっと続いて、7月のある日のことでした。あの年の7月はすでにすごく暑い日が続いていて、毎日つらそうだったんですけど、ついに仕事中に熱中症みたいになってしまったんですね。でも、ずっと体調も悪そうだし、本当に熱中症なのかどうかもわからない。それで一度病院で検査しようと行ったら、その場で『検査入院しましょう』と言われて…」

ライター田中
「熱中症ではなかったわけですね…」
菜穂子さん

「はい。どうやら普通の状態じゃないらしい、ということだけわかりました。その後、8月に入って大きな病院で再検査したところ、肺に癌が見つかってしまいました」

ライター田中

「そうでしたか……」

自宅でケアしながら
最後は家族とともに

「どれぐらいもつのか」――病名を聞かされた際、久男さんは主治医にこう問うたという。自分自身の身に降り掛かった思いもよらぬ事態。しかし、検査入院から戻ると久男さんは再びお店を開けることを決意し、常連さん向けの予約営業のみではあるが、厨房に戻ることを決めた。
菜穂子さん

「お医者さんに言われたのは、残された道は抗がん剤での治療とのことでした。しかし、お店をやるだけで疲労困憊するほど体力も衰えていて、抗がん剤治療が受けられるだけの体力はありませんでした。もう歩くだけでやっと。もうそうなると、治療を最優先にすべきだろうということで、9月末にお店の看板を下ろすことに決めたんです。あの時が私たち家族も一番辛かった。おそらく本人は検査入院から戻って、這いつくばって厨房に立っていたとき、もうここには戻れないことをわかっていたんだと思います。もう戻れないから、あそこまでして頑張ったんじゃないかな……」

秋も深まり、木々の葉も色づきはじめた11月。久男さんはリハビリのため再び入院することになった。身体の調子は相変わらず…しばらくして久男さんは治療ではなく緩和ケアに切り替えることを決断。自宅に戻って家族と生活することにしたという。
菜穂子さん

「一度、家を離れた娘もうちから仕事に通うことにして、家族で過ごすことにしました。居間の隣にベッドを置いて、食事するときも家族一緒。それから亡くなるまでだから、二週間程度は一緒にいられたのかな。とても大切な時間でした。いろいろな話もしたました。でも、お店のことは一切触れませんでした。思い出しても…さみしくなりますしね」

2018年12月5日。家族に見守られ、久男さんは旅立った。

味を残したいと語っていたが
主人はその“申し出”を…

かもしかの味、その代名詞とも言える“黒いビーフシチュー”。久男さんは生前、我々の取材に何度も「お店の跡継ぎはともかく、(黒い)ビーフシチューの味は残したい」と漏らしていたが、その思いは遂げられたのだろうか。

菜穂子さん

「それが…結局、誰にも教えていないんです。そのチャンスはなかったわけではないのですが」

ライター田中

「なるほど…あれだけ残したいと仰っていましたけど」

菜穂子さん

「今でも、どうしてなのか…主人の本心はわからないんですけどね。実はあの年の9月末、お店を閉めることになったとき、親しい方があのレシピを受け継ぎたいと手を挙げてくれたんですよ。私も『いいじゃない、教えてあげれば』って言ってたんだけど、主人は最後まで首を縦に振りませんでした」

ライター田中

「なるほど」

菜穂子さん

「もう少し時間があったり、状況が違えば変わっていたかもしれないですけど…大病を患い、明日のことも見えないなかで、人に託したくないというか、やっぱり自分の代で『あの味』を終わらせようと思っちゃったのかな」

お店を愛したくれた方々へ
今、伝えたい心からの感謝

久男さんは一切妥協をしない人だった。食材から作り方まで、本人が「正しい」と思う道を、常に歩んできた。利益よりもお客さんの満足のために。
菜穂子さん

「とにかく頑固な人だったんですよ…って何度も言ってますね(苦笑)。でも、ホントなんですよ。それでいて、人がすることには無頓着! 私が何をしていようと好きにしろって感じ。おそらく、私の好みも知らなかったんじゃないかなぁ(笑)」

ライター田中

「久男さんへの小言、天国まで届いてそうですね(笑)。最後に、これまでお店に通ってくれた方々へのメッセージがあればお願いします」

菜穂子さん

「そうですね……。主人は病気がちで不調な日も多かったですが、そんな主人を支えてくれたのは、何と言ってもその味を好んでくれた、長いお付き合いのお客さま方でした。遠方から通ってくれたご家族は、閉店をする直前にもおいでいただき『必ず再開してください』と仰ってくださいました。そして私たちも再開を約束いたしました。多くのお客さまと約束したんです。その約束を果たせなかったことが残念でならないし、信じて待ってくださった方々には大変申し訳なく思っています。ただ、皆様からの励ましの言葉や思い出話は、晩年の主人の“生きる力”になっていたのは間違いありません。長い間、『レストラン かもしか』と岡野久男の味を愛して応援してくださった皆様に、心から感謝申し上げます。また、主人を信頼してお店を譲ってくださった(かもしかの)創業者の故・真木昭さんにも、深く感謝したいと思います」

“黒いビーフシチュー”を筆頭に、生前あれだけ「残したい」と願っていた自らの味を、自分だけのものとして天国まで持っていってしまった久男さん。おそらく雲の上でも、誰にも教えることなく、一人で黙々と鍋を振っているに違いない。

今、菜穂子さんは、高崎市内で新しい仕事に就いて働いている。陽はまた昇り、川の水はとどまらず、物事は刻々と変化する。だが、貴方があの日「レストラン かもしか」で食べた料理の美味しさは変わらない。それは永遠なのだ。そして永遠に語り継げる思い出があるなら幸せだ。そう、それはとっても幸せなことなのだ。

取材/田中 元

撮影/今井裕治

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