たぶん、街のパン屋の理想型
高崎で2番目に古い老舗の
毎日食べたいフワッフワ食パン
聞くところによれば昨年だか一昨年あたりから食パンがブームだそうである。食パンってあれでしょ、スライスされた6枚とか8枚入りで安いのだと100円ちょっとぐらいで買えちゃう、やっつけ朝食の食卓に用意されるやつでしょ(筆者の個人的体験に基づくイメージ)。そんな食パンがブーム? なんで? と思ってたら、どうやらそういうのじゃないらしい。もうめちゃくちゃうまいんだと。それでいて価格は一斤1000円とかもざら。なに、それ。贅沢品じゃん。食パンってそんなもんだった? 違うよね? 違うよね? ということで、今回はスーパーやコンビニで売られている食パンよりちょっと高いけど、とっても質の高い食パンを提供してくれる店を紹介しよう。もちろん食パン以外のパンも秀逸との噂。こりゃ楽しみだ。
(取材/絶メシ調査隊 ライター田中元)
作るのやめると苦情が来るから…
と、100種類超のパンを提供!
どうも絶メシ調査隊の田中です。私が調査活動に出動するのはおよそ一年ぶりのこと。別に干されていたわけではない…おそらく。えっと、そうですよね…(自信なさげに)。そこんところをこれ以上掘り下げてもこの後の気分に影響が出るだけだろうと判断し、目的の店へと向かった。目指すは高崎の老舗パン屋「このえパン」。
調査隊員の一人が「あった!あった!」とパンの巨大立体造形を見つけるも、看板に記されている店名は「BAKE SHOP konoe」。絶対ここだろうと思うんだけど、微妙に店名が違う。間違ってないよね?
「なるほど…って、あなたはどなた?」
「ものすごい種類ですね。今、どれぐらいあるんでしょうか」
「100種類以上になるかな。本当は50か60種類ぐらいにしたいんだけど、減らすのは難しいんですよね。それぞれ飛ぶように売れるわけじゃないんだけど、だからといってやめると苦情がくるんです。『なんであれやめちゃったの?』って」
「ほほう。で、100種類以上ある中で、人気商品となるとどのあたりでしょうか」
「うちの“顔”になっているのはクリームサンド、あんドーナツあたりですね。今は調理パンやおかずパンもオシャレなのが流行ってるけど、高崎ではうちが一番最初におかずパンを始めたと思うんですよ。コロッケパンとかウインナーパン、エッグパン、ハムパンとか。女子高生時代に買ってくれていたおばあちゃんや、その子や孫も買いに来てくれるし」
「そこに新しい商品もどんどん加わると」
「そうですね、問屋さんや本やテレビからの情報で、思いつきでやってみることも多いです。商品化まで行くのは意外に少ないですけどね」
日本一を目指した先代
山っ気に満ちた2代目
「改めてお店の歴史をお聞かせください」
「親父が東京・日暮里のパン屋で修行して高崎に戻ってきて、昭和9年に創業しました。私もまだ生まれておらず、パン屋が比較的珍しかった時代ですね。パンはちょっとした高級品だったので、お出かけする時とか、病気の時とか、特別な時に買ってもらうようなものだったそうです。『このえパン』という店名は、かつて高崎が軍都で、帝国陸軍の歩兵第15連隊が駐屯していたことに由来します。創業時、店名を考えていた父は知人に相談したところ、天皇をお守りする近衛師団は一般師団とは一線を隠す日本一の精鋭部隊と言われていたため、その名をお借りして、日本一のパン屋を目指すという意味で屋号を『このえパン』としたそうです。」
「創業の地は、こちらですか?」
「はい。正確にはここの近所ですね。両親と職人さんでやってたんだけど、昭和13年頃に、支那事変で親父が軍隊に召集されちゃってね。親父が戦地に行っている間はお袋と父の妹と、祖父の後妻、他にも私は誰だか知らない人たちも一緒に店を続けていたようです」
「このあたりへ戻ってきたのは?」
「昭和39年にある意味で“今の形”が出来上がったと。ちなみに石附さんが後を継がれたのはいつ頃ですか?」
「これが実は早くてね。昭和42年とか43年くらいのころ。大学を卒業した後、一年ぐらい平塚の方の洋菓子屋で修行してうちに戻ったら、その三ヶ月後ぐらいに親父が死んじゃったんですよ」
「それは……大変なことに……」
「ほんとは違うことやろうかと思ってた矢先だったんですけど、職人さんもいるし、とにかく店を回さなきゃって、あれよあれよとそのまま後を継ぐことに」
「初代が日本一のパン屋を目指してつくったお店ですから、2代目としてプレッシャーもあったのでは?」
「清々しいほど“失敗”をお認めになるのですね」
「おうふ…」
いろんなパンを食べて
“街のパン屋”の実力を知る
というところでそろそろパンをいくつか食べさせていただきましょう。買ったものを、即、店頭で食べちゃいます!
手始めにバター塩パンから。「うほっ、これはうまいですね。普段、パンなんてあんまり食べないんだけど、これはススム。パンがススム。食事としていけるやつですね」
「チョコとナッツがコーティングされたパンなど間違いが起こるはずがありませんね。もう、うまいです、うまいに決まってると思って食べたけど、やっぱりうまいです」
さて、ここまではある意味で“お遊び”である。今回の調査の一番の目的は食パンの実力を確かめること。
「了解です!」
経営危機を救ったのは
パンの神、“中野先生”
気軽に買って気軽に食べられるものながら、満足度は極めて高い。『美味しんぼ』の山岡士郎だったら目を丸くしてうんちくを述べるだろうし、富井副部長なら「これこれ、この味だよ!」と過去の何かを思い出して涙を流すに違いない…。ずばり、町のパン屋さんの理想型といえようか。
ところで!
「あ、そうだったね。まず中野先生という方は高知にある『ベイクショップグループ』っていう、四国や中国地方で展開しているパン屋チェーンの社長です。パン作りに対する信念がある方でね。先ほども話した通り、バブルが弾けてうちも経営が大変になり、どうにかしないととなったときに、高崎の松浦幸雄前市長の長男で、高校の後輩だった玲一郎が『こういう人がいるよ』って教えてくれたの」
最後に「BAKE SHOP konoe」のこれからについて聞いてみよう。
「これからですか? 今、俺は72歳。なので、あと3年、75歳までは第一線に立とうと思っています。幸い屈強な体に産んでもらえたおかげで普通の70歳より元気あるしね。あとは気持ち次第ですね。心折れたら商売とかって成り立たないじゃないですか」
「娘が継ぎます(即答)」
「え? 娘さん?」
「うん。今うちには職人が男3人、女3人いるんだけど、その1人が娘。幼稚園の時からパン屋を継ぐって言っていて、本当にそうなることになりました」
取材/田中 元
撮影/今井裕治