伝統よりも今を大事に
伝統よりも今を大事に
高崎の豆腐屋さんの組合に登録している個人経営店は、2018年現在で合計16軒だそうだ。これを多いと見るか少ないと見るかは部外者からは判断しづらいのだが、聞くところによれば昭和50年代頃までは50数軒が組合に所属していたという。激減である。今回訪れたのは、そうした時代から、いや、それ以前から継続して頑張っている個人経営の豆腐店の老舗。ということで、早朝の仕込み作業時からお邪魔させていただいた。
苦労を全く滲ませない
早朝からのハードな仕込み
「おはようございます。『めっちゃ豆腐屋に行ってそう』という意味不明の理由で、調査隊の幹部から指名され、果てしなく苦手な早起きをして現場へと赴いた田中です。現在の時刻は午前4時。もちろん起床時刻はもっと前です。眠いです。あと、かなり寒いです」
だが、現場ではすでに店主の斉藤俊夫さんと正子さんご夫妻がバリバリに仕事中である。
「眠そうで寒そうだねえ。コーヒーでも飲む?」
一発でオフってる感、見抜かれてしまった。ぜひ温かいコーヒーを飲ませていただきたいと懇願する取材班だったが……。
「あ、ごめん、なかった。代わりにこれで元気出して」
「お見受けしたところ、すでにある程度の量の豆腐も作られていて、作業開始から結構な時間が経過しているようですが、一体何時頃から作業されているのでしょうか」
「今日は午前1時に起きて、1時半から働いてるね」
早ぇ。
午前4時からの取材はきつい、などとごねている場合ではなかった。
とはいえ1時起きって、早起きの域を越えちゃいないか。そもそも豆腐屋とはなんでそんなに早くから仕事をしなきゃいけないのだろうか(←半ギレ気味に)。
「だって早くからやらないと間に合わないから。ちなみに今日は学校給食の分で500人分作らなきゃいけないんですよ。量も多いし、お昼までに配達も済ませておかなきゃいけないからね。どうしても早い時間からになっちゃう」
なるほど、午前中であらゆることを済ませないといけないのか。基本的に午前中は寝床から出ることはない田中も、斉藤さんの淀みない返しに頷くことしかできなかった。
「まぁ、日によってバラつきがありますけどね。うちが給食用の豆腐を提供している学校は10校ほど。全校が毎日豆腐を必要としてないけど、結局月曜から金曜までどこかしら配達はあるんですよ。のんびり眠っていられるのは(学校の)夏休み期間とかだね。そういう時は8時頃起床」
「1時半とかから仕事してた人が8時起床ですか…それはそれで切り替えが大変そうですけど」
「長年やってるからね、慣れだよ、慣れ」
さも当然のように語る職人・斉藤さんである。
風の吹くまま倉賀野へ
運命を受け入れ豆腐屋へ
斉藤さんは「むさしや豆腐店」の4代目。代々継いでいるので、ストレートに斉藤さんの曾おじいさんが初代、以降はおじいさんが二代目、お父さんが三代目となる。
「といっても、自分は初代と二代目には会ったことないんですよ。だから創業が明治の終わり頃とは聞いてるけど、なんで豆腐屋をやろうとしたのかはわからないです。親父も創業より後の大正6年生まれだし、自分が物心ついた頃にはすでに親父が継いでましたからね」
「では『むさしや』という店名の由来もはっきりとはご存知ない?」
「それは聞いてます。曾じいさんが埼玉出身だからだね。そのころは台車に豆腐を積んで町中を回って売っていたらしいです」
「その後、高崎へ移住されたわけですね」
「みたいだね。高崎では十五連隊(※)の前で商売をしてたようです。兵隊さん相手にね」
※十五連隊
陸軍歩兵第十五連隊のこと。
「二代目のじいさんが倉賀野に店を開き、親父の倉賀野の中で移転したりして、自分の代になって今から30年ぐらい前にここに定着しました」
「斉藤さんご自身は何歳ごろから本格的に働かれ始めたのでしょうか」
「子どもの頃から父が働く姿は見ていたけど、自分が手伝うようになったのは17歳とか18歳頃ですかね。昭和19年生まれなので、昭和36年、37年あたりかな」
ご兄弟も三人いたが、女性ばかりだったため、ゆくゆくは自分が店を継ぐのは自然な成り行きだった、と斉藤さん。父の背中を見て育ち、運命を受け入れたのだ。
出来たて油揚げに出来たて豆腐
これが伝統の味……ではない!?
話を聞きながらも朝の作業はひと段落。ここで奥様の正子さんから、出来たての油揚げを出していただいた。
「これ、お店で買えるんですか?」
「油揚げは1枚54円で売ってます。でも、流石に出来たてそのままってわけにはいきませんよね。でもフライパンで揚げていただければ大丈夫ですよ。レンジで温めてもいいけど、フライパンの方が美味しいですね(きっぱり)」
「伝統の味? うーん、手作りにはこだわってますけどね、味はその都度変わりますよ」
実にあっさりと言い放つ斉藤さん。
技法も商売もその都度対応
打開策に期待したい
「自分が好きなのは、箸でつかんでも崩れないような、程よい硬さの豆腐なんですね。かつてはそういうものを作っていたんだけど、お客さんの好みは変わってきますから。最近では柔らかく、甘みのあるものが好まれるので、にがりに塩を混ぜて甘みを引き出したりとかね」
「といっても、先ほどいただいた豆腐は割と硬めの崩れにくいものでしたが」
「あれは給食用だからね。給食は大量に調理するでしょう。給食担当の人が崩してしまわないよう、硬めに作ってるんですよ」
「時代で変化というより、状況に応じての変化なんですね」
「そうですね。大豆も日によって、天候によって、季節や水温によっても違ってくるので、その度に試行錯誤ですよ」
「とはいえそこは長年の経験でうまいことやる、と」
「そうだけど、でもやっぱり難しいですよ。難しいけど工夫するのが面白い。それに味が日によって変わるから、お客さんから『今日のは美味しかったよ』って言われたりもしますしね」
「豆腐の味に限らず、大変な時期もありましたか?」
「あるある。昔は豆腐なんていつでも食べるものだったけど、食生活が変わってきたでしょう。ご飯の代わりにパンを食べたりとかね。それと、オイルショックの時も大変でしたよ。豆腐を入れるパック製品が手に入らなかったり、豆腐作りの燃料もなかったり。スーパーが進出してきてからも大変だったな。辞めちゃった同業者も多いですよ」
そんな中、店の伝統云々よりも、その場その都度その時期の状況に応じて臨機応変で対応してきたからこそ、明治から4代にわたって「むさしや豆腐店」は営業を続けてこられたのかもしれない。だが、冒頭に書いたように高崎の豆腐組合所属店は年々減っており、斉藤さんもそろそろ閉店を視野に入れているという。
「後継者がいないからね。さっきも話した通り忙しい時は午前1時起床でしょう。そういう日でも仕込みが終わるのが朝の6時過ぎ。朝ごはんを食べてから配達に行って、店を開いて。営業中は午後1時から4時ぐらいの間に女房と交代で昼寝して、午後6時の閉店までにそれから翌日の仕込みもやっちゃう。夕飯食べて夜8時9時に寝る。子どもはいるけど、やれなんて言えないですよ」
「そんなハードな生活を見てたら、子どもからしても『やる!』なんて言えないですよ……。誰か外部の方でやりたいという方がいたりとかは?」
「いたいた。一度、中国の若い人が修行させてくれって飛び込んできたことがあったけどね」
「いいじゃないですか!」
「まぁ、断ったけど」
「な! なんで! NA -N-DE!!」
「だって雇えるほど給料だって出せないからね。今の時代、修行だからって無賃金ってわけにはいかないですよ。いいの、うちはこれで。あとは夫婦の体力が続く限りやりますよ。妻も体があちこち痛いっていうし、もうあと何年もないだろうけどね」
斉藤さんはさも当然といったようにニコニコしながら話す。どんな状況でも肯定的に受け入れて納得していく人なのだ。確かに全てを好転させる画期的な方法はないかもしれない。だが、時代時代で直面した数々の問題に着実に、誠実に対処することで生きながらえてきた斉藤さんだ。今回もまた、ちょっとしたきっかけで次世代へと引き継ぐ方法を見つけてくれる、そんなことを期待するのは我々絶メシ調査隊の身勝手な要望だろうか。